コア社員・専門社員・支援社員2〜社会保険と契約社員

おっと、もう日曜日だ。この一週間は夏休み明けで再び倒れないように注意していたせいか、ブログがあとまわしになってしまった。ブログというのは更新しないとすぐ忘れられてしまう。
元NHK職員で今は経済学者でちょっと過激な池田信夫さんのブログを僕は愛読しているけれども、あんな忙しそうな人なのにほぼ毎日更新されている。しかも、毎回濃い内容だ。そのペースで10年近く続けておられる。池田さんは、よほどの減塩食で、毎日1時間はウォーキングしておられるんだろうな。それでなければ、僕だったらとっくに倒れている。

今週は淡路プラッツの仕事もそろそろ忙しくなり、前回とりあげた『発達障害のいま』(杉山登志郎著/講談社現代新書)を完読する時間がなかった。「発達凸凹」という新概念の提案だけにとどまらず、幼児期のトラウマ(つまりは虐待)と発達障害発現の関係性を探っていくという、ある意味画期的な視点をもった本で、久しぶりの「新書名著」かもしれない。
これは、その凸凹説やトラウマ原因説という視点に反論があったとしても、現代の発達障害あるいは広くは現代人を知る意味で必読という意味で、名著かもしれないとしている。
だから僕には珍しくじっくりと読んでいる(『リトルピープルの時代』なんて流し読みだった)。後半部解説はもう少しお待ちを。

忙しかった今週、たくさんの対話を重ねてきたが、印象的だったのは、当ブログ8月8日に記した「コア社員、専門社員、支援社員」が時々話題になったこと。最近の企業の同行をメディアを通してしか知らず、たとえば「インターンシップ」のきちんとした意味すら最近やっと理解した素人経営者の僕からすれば、このような提案はすでにもう古臭いものになっているとなかば覚悟した上での執筆だったのだが、先進的企業の取組はさておき、こうした提案はまだまだ珍しいことが判明した。
そして、この提案は、ニート支援への現実的システムづくりに活かせるのでは、とも思い始めた。

昨今、「中間労働」という言葉が流行し始め、東京ではセミナーなども開かれ始めているらしい。僕は大阪在住であり、おまけにいまだ傷病手当の身だから、その流行から完全に取り残されてしまっている。でもその言葉が妙に引っかかり、僕なりに、メスが入って能力が半減したこの脳みそでぼんやり考えている。そしてこの中間労働という言葉になぜか引っかかっている人は僕周辺にも複数いる。
それらの人達との会話をまとめると、「中間労働」という言葉と意味にはそれほど興味がないことがわかる。彼女ら彼らがなぜか惹かれているのは、「中間労働」という言葉がもつ「新しさ」だということだ。これは「中間労働」が新しいという意味ではなく、現在ある「労働」という言葉と、現在社会で変化しつつある「実際の労働システム/スタイル」が完全に乖離しており、その新しく生まれ変化しつつある労働実態に対して、人々は何らかの「名づけ」を欲しているということだ。
その「名づけへの欲望」が、この半年ばかりは「中間労働」という新しそうな言葉に吸い寄せられていると思われるのだが、僕が直感するには、その欲望はまだ満足していない。

その(新しい労働について名づけしてほしいのだが未だされておらず)満足しない欲望の一部が、たとえば僕が書いたマニアックなブログ「コア社員・専門社員・支援社員」にまで集まろうとしている。だから、このタイトルは、僕のまわりの一部の人ではあるが、それなりに話題にはなった。
そんなわけでこのテーマは連載することにした。今回は、前回に加えて、ここに「社会保険」と「契約社員」という因子を絡めてみる。
コア社員は、その会社(あるいはNPO等すべての組織)の、「コーポレート(経営/全社)的側面」と「事業的側面」の両方を抑えなければいけない存在で、まさにオールマイティーの能力が求められる。
これは複数年にわたって確保しなければいけない(年間契約ではない)人材だから、当然社会保険は厚生年金/健康保険となる(当ブログでたびたび言及しているが、我が国は、こんな危機にあっても年金と健康保険の抜本的改革はできないという超保守的国民性だというを前提としている)。
ということは、この社員の分の(会社負担分の)年金を会社は負担しなければいけない。

専門社員は、コーポレートへの関与は不要で、各事業の中の財務面を除いた、まさにその事業の運営を担う人達のことを指す。これは、その事業の性格にによって異なるが、業界によっては事業は単年度のことも多いだろうから、基本的には年間契約となる。
年金/健康保険の企業負担分も、一人の専門社員にかかる総額予算は決まっているから、たとえば厚生年金をその専門社員が選んだ場合、企業負担分も込みでその予算から引かれることになるため、手取りはかなり減る。
かといって国民年金をその専門社員が選んだとしても、厚生年金の場合だったらあらかじめ引かれる年金分は当然社員に支払われ社員が自分で国民年金を支払うことになるのだが、厚生年金の場合であれば企業が負担する企業分の年金分はおそらく個人には上乗せして支払われないだろう。国民年金の場合、はじめの予算からその企業負担分の年金が企業側にプールされる。
企業からすると少しお得なのではあるが、個人からすると手取りが一見増え拘束感も減るので、超消極的な意味ではあるが一応「ウィンウィン」の関係かもしれない(でなければ、ほとんどの人は厚生年金を選ぶはずだ)。

支援社員は、専門社員と同じくコーポレートには関与せず各事業内に関与する。ただし、コア社員や専門社員を補佐/支援する役割が主業務だ。従来のアルバイトや男女雇用機会均等法以前の「OL」はこの立場だった。8/8のブログにも書いたが、ディズニー(マクドナルドでもロッテリアでも地域のスーパーのレジの仕事でも同じだが)のほとんどの従業員の立場はこれにあたる。年間契約についても、年金/健康保険についても、専門社員と同じ。

経営では常識らしい「人材ポートフォリオ」の簡略版といってしまえばそれまでだが、僕が読んだ入門書の範囲内でもそうしたポートフォリオは複雑すぎる! 現実はこうした「水平の」組織図と交差するように、「垂直の」等級制度(部長・課長・係長等)がクロスしてくるからさらに複雑になる。
これからの若者の雇用という側面で考えれば、全若者のうち新卒で就職できない4割(大卒の場合。また、残りの6割がいわゆる正社員かどうかも疑わしい)は、支援社員が入口となるだろう。支援社員/国民年金/年間契約という入口からスタートして、どれだけのステップ(出世)があとあと用意されているか。また、入口の部分においても、いまあるインターンシップと、臨時的な行政支援(たとえば、一昨年からプラッツが取り組む緊急雇用創出基金事業のようなもの)を組み合わせて労働という入口に「軟着陸」できるか。
まず、労働システムの変更とその明確化、ついで、若者が志向できるコースの簡略化(たとえば「支援社員」の設定)、その入口でいかに踏みとどまることができるかというサービス設定(インターンシップ、行政支援、支援社員拡充による企業〈あるいはNPO等その他の法人〉の利益の明確化、経営者の意識改革等)がうまく絡めば、夢物語でもないような。
それらすべてのモチベーションは、年金支払者の増加による超高齢化社会の下支えというところに行き着く。とにかく、ドラスティックな年金改革ができない国民性である以上、企業・NPO・家庭といった我が国が得意な「現場力」とそれへの支援によって、この難関を突破するしかない。★