サポステに定着しない若者たち〜キーワード②「潜在性」〜

前回から唐突に「キーワードシリーズ」が始まったわけだが(それもシリーズ化を思いついたのが前回ブログをアップしたあと……タイトルをあとで修正しました)、今回は「潜在性」について簡単に書いてみる。
哲学好きの人であれば、「あ、元ネタはドゥルーズね」みたいに指摘してしまうかもしれないこのタイトルであるが、まあドゥルーズにもし関心があれば、『差異と反復』や『ミルプラトー』を読んでみてください。
実は、僕は何回も何回も読んだのだけどいまだにピンときていない両書なのではあるが、まあそれはいいか(よくない!!)

そんなわけでドゥルーズはさておき、「潜在性」とは、表出可能性はあるが具体化・顕在化していないものを指す。僕の仕事でいえば、①サポステに定着しない若者たち、②高校中退後20才前後でひきこもっている若者たち(当ブログでは「アラトゥエ」という言葉で取り上げてきた)、そして③非正規雇用ではあるものの社会保険(年金と健康保険)は親が払っている若者たちなどをさす。

③を中心に、いずれも当ブログではおなじみのテーマばかりで、逆に、僕の仕事領域に関しては、これら以外のものは書評とスティーブ・ジョブズくらいしかないというくらい、僕はこれらばかりを取り上げている。

思い起こせば10年前、スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)を読んだ時の衝撃は僕にとっては格別だった。それは、徐々に、ゆっくりと波紋が広がるように僕の内面に広がっていき、満たし、熟成させた。
そこで語られる、「真の“当事者”は語ることができず、つねに潜在的存在として幽霊のようにそこに居続ける」というテーゼは、いまだに僕の中では中心を占めている。

そしてそのスピヴァクのテーゼと、僕のひきこもり支援の仕事は見事にシンクロし、以来、「最も語ることができず最も潜在的に居続けるひきこもり当事者こそが、最も支援を求めている」というかたちで、確信となって僕の中心を占めるようになった。

その衝撃の余波のせいで、当時せっかく名乗りを上げて発言したり文章を書いたりし始めた当事者の方たち(当時の僕ふうにいえばそれは真の当事者ではなく、元当事者であり「経験者」なのではあるが、いまはそうした呼び名にはそれほどこだわってはいない)と激論になったりして、ずいぶんご迷惑をおかけしたりした。
その点に関してはあらためて申し訳なかったという気持ちでいっぱいなのだが、最大の当事者こそが語ることができず潜在的存在として居続けてしまうという確信そのものはいまだに変わってはいない。

そこ(語ることができない真の当事者)を支援するためには誰かが代弁し誰かが手を差し伸べるしかない。その誰かは、前者(代弁する者)は「元当事者/経験者」になり、後者(支援する者)は「支援者という他者」になる(だからこの両者がぶつかりあうことは生産的ではない)。
「他者という僕」は、真の当事者を代弁しつつ、他者として接触する。まあこのような議論の大元はデリダになるわけだが(ということは、デリダがとりあげたたくさんの哲学者にもつながっていくし当然フロイトにもつながる)、まあ個々の哲学者の名前はいまやもうどうでもいい。
こうした確信を得ることができただけでも、僕は「臨床哲学」を学んだ意味があった。

で、純粋ひきこもり的な若者も含めて、いまだにひきこもり/ニートのジャンルでは、真のひきこもり/ニートは、サポステ等の支援施設には定着していない。特にサポステは、就労結果を委託側が求めるあまり、受託側はその「数字」に追われ、一部のスキルのある団体以外は苦労していると聞く。
サポステに関して、それをどう捉えればいいのかずっと迷ってきたのだけれども、この頃やっと少し見えてきた。サポステとは、つまりは「顕在化した若者」を支援する組織であって、ひきこもり/ニート問題の中核である「潜在化している若者」を支援する中心的組織ではないということだ。

おそらく、そうした潜在化した若者は、国や行政はなかなかキャッチしにくい存在である。なぜなら、同語反復に聞こえるかもしれないが、国や行政にキャッチできないからこそ潜在性が潜在性となることができるから。
言い換えると、ひきこもりとは行政とは別のレベルで生きる存在だということだ。それはしっかり堅実に生きており、かつ支援をどこかで求めているのかもしれないが、決して主流の支援組織が掬いとることができない。
それは、おそらくNPO(の本来事業)しか支援できない。
だから、彼ら彼女らはひきこもりであり、そして「当事者」なのだ。

うーん、うまく説明になってないなあ。またスピヴァクを再読しておきます。とにかく、プラッツはこうした層をどこまでもサポートの中心として位置付けていくということを言いたかった。★